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現在ジョホールバル日本人墓地にある招魂碑と記念碑について (その1) 木村秀美 2001年3月にジョホール日本人会では、在マレーシア日本国大使館の協力を得て州内 コタティンギ郡にあった日本人が関係 した遺跡・墓碑をジョホールバル日本人墓地へ移設した。 今回はパームオイルの木が生い茂り、日中でも薄暗い林の中で見つかった日本人が建立 した招魂碑と記念碑それぞれ1基について、発見当時の様子を後世に残 す為に関係者の 一人としてここに筆を取る次第である。遺跡の日本人墓地への移転は、このほかにもう1基の大きな招魂碑と日本人女性の墓石も一つ見つか り、これらも一緒に行ったのだが、これについては次回以降に譲ることにする。 これら4基の遺跡が見つかったのは全くの偶然であった。今からちょうど10年前の1995年に、私は仲間とデサルーでゴルフをした後(当時ジョホールには パブリックコースとしてはここしかなかった)、ゴルフ場から少しコタティンギへ戻った海岸沿いのPanchorと言う町にある海鮮料理店Sengat SeafoodRestaurant(写真@)で、いつものようにワイワイがやがや騒ぎながらFish Head Curryを口にしていた時、中国人から「日本人か」と声を掛けられ、「そうだが・・・?」と答えると、彼は大事そうに保管していた「新明日報(1993 年7月30日付)」という、中国語新聞が取り上げた日本人の遺跡や墓石が見つかったと言う記事(写真A)を見せた。 すべてはこれがことの始まりであった。その時は余り分からない中国語で説明を聞いただけであった。後日、日本人会の竹下事務局長(故人)に声を掛けて改め て4WDを調達して、この中国人に現地案内を頼んだ。 人気の無いパームオイル園内の小道から少し中へ入ったところで、「招魂碑」(写真B)と「加餐努力」で始まる背の高い記念碑(写真C)を見つけた。これら は明らかに日本人が建立したもので、周囲はパームに囲まれていたので、これ等の遺跡は損傷することなく碑に刻まれた日本語の文字もハッキリと残っていた。 発見した時の状況は写真Dの通りである。写真中央の人物はマレーシアに長く駐在して、香辛料の原料となる植物を栽培していた 尾久哲文氏(元S& B Food)で、この調査に協力してくれた友人である。 それから私はジョホールバルに戻って、趣味で手元に集めていたシンガポールやマレーシアに関する書籍と資料をシンガポールの書店で手当たり次第に探して、 私は遂に「ジョホール河畔―岩田喜男南方録」小林一彦・野中正孝著の中に、この記念碑と招魂碑の写真が載っているのを発見したのである。(写真E)この二 つの碑はトロンスンガイにあった「南洋神社」のものである。写真DとEを見比べてみると、尾久氏が立っているのは碑の裏側で、向かって左後ろに社殿があっ た。 写真Fでは社殿の基礎と思われるコンクリート台が移っている。この記念碑は、大正2年 (1913)1月22日シンガポールから小型船でマレー半島のジョ ホール王国パンチョールのゴム園へ赴任した青年―岩田善雄24歳とその部下達のゴム園開発の苦労と業績を讃えたものである。招魂碑は、岩田氏と苦労をとも にして亡くなった社員や家族の魂を祭るためのものである。 現在この二つの碑は、ジョホールバル日本人墓地の左奥にある大木の下に移転されている。(写真GとI)。 最後に写真Hはこの調査に加わった人たちである。尾久氏は数年前に定年で帰国、竹下氏は今年他界した。小和田氏は当時シンガポールでご自分の仕事をしてい たが、今は消息不明である。
ジョホール・バル日本
人墓地にあるもう一つの招魂碑と墓碑について (その2) 木村秀美 前号では、2001年3月にジョホール日本人会で在マレーシア日本国大使館の協力で州内コタテインギ郡トロ・スンガイにあっ た日本人の建立になる「南洋神社の記念碑と招魂碑」をジョホール・バル日本人墓地へ移設したことをお話しました。 今回は同じくコタテインギ郡センガットの見晴らしのいい丘の上に堂々とそびえ建っていた「招魂碑」及びその近くの日中でも薄暗いパーム・オイル園から見つ かった日本人女性の墓碑について触れたいと思います。 この招魂碑(写真@)は台座が約2メートル90センチx3メートル70センチ、高さは実に約7メートル80センチで、表面トップに「IN MEMORY OF NOBLE COMRADES」と横書きされ、その下に縦書きで大きく「招魂碑」と刻印されています。裏面には「大正6年秋森村書」とあるので、こ の碑は1917年に建立されたものと判断します。碑文の箇所は石ですがその周囲はセメント作りでした。恐らく、碑文を刻んだ石の部分は日本から持って来た のではないかと推察します。尚、この場所は記録によれば当時「日本ゴム園」と呼ばれていたところです。ComradeとはLongman Dictionary of Contemporary EnglishによればA friend、especially someone who shares difficult work or dangerとあるので、日本語では「辛苦をともにした友人たちの記念に」と訳すればいいのでしようか・・・。 現在この記念碑はジョホール日本人墓地内のトロ・スンガイにあった南洋神社の記念碑の向かって左隣に移設されています。尚、日本人墓地に移転された招魂碑 は頭部のかさ状の飾りものが(何か意味があるとは推察されるが)なくなっています。(写真A) ここでチョッと横道にそれますが、前述南洋神社の記念碑(写真B)(正面トップに「加餐努力」とある)については、先月号(第158号)でその移転の経緯 について書きましたが、今回はその正面の加餐努力の文字の下に刻印されている碑文について、触れてみたいと思います。一部判読不可能な箇所もありますが、 まとめるとその内容は凡そ次の通りです。
手元資料によれば、1911年8月現在の主要邦人ゴム園は総払い下げ面積が83,789エーカーで、総開墾面積は15,858エーカーであった。その中で 既墾面積が6,000エーカーの三五公司(三菱系)から10位の400エーカーの鈴木審三氏 (個人−元古河園にいたが途中で分離)があり、南洋護謨は第6位で、払い下げ面積が 3,000エーカーで既墾面積は1,000エーカー、事業着手は1911年とあり ます。この時期、日本では南進論が受け入れられ、官民一体となった農園労働者の移民が活発でした。マレーシアではゴム園の開発が積極的に行われました。 (資料: 「英領マラヤの日本人」 原不二夫著) 話を本題に戻して、次は「故衣川澄子之墓」について記します。この墓は南洋神社跡 から4WD車で少し走ったパームやしが生い茂る薄暗いくぼみの中にありました。 発見した時墓は「つたの木」で覆われていて、それはちょうど女性の長い髪のように も見えて、私は一瞬気持ちが悪くなったのを今でも覚えています。 調査に同行してくれた尾久氏が持参した「なた」で、墓碑を覆うつるを切り払うと木 の根元で風雨にさらされなかったためか、文字も鮮やかなりっぱな墓石が出てきました。(写真CとD) 後ろの面には「大正9年2月4日没」と石に刻み込ま れて、その周囲はこれもセメントで固めてありました。 (注) 大正9年−1920年 この墓の主は、先述「加餐努力碑」にある岡本貞烋青年が、大正2年1月22日シンガポールからパンチョールへ向かう蒸気船の中で乗合わせた「ゴム園の主と 名乗った日本服で靴穿きの50歳前後の婦人で、英語を勉強しようと思うが、見込みのないものだろうか」と尋ねかけた人ではないかと推測します。もちろん、 真実は今後調べてみる必要があります。それほど立派なお墓でした。 この墓は、後から近辺で見つかった4基の墓碑と一緒に、1999年4月に日本人墓地へ移転されました。墓地一番奥にある日本人会が建立した大きな合同慰霊 碑「倶会一処」の左後ろに移されています。 次回はKota Tingiの前述4基の墓碑とMuar、Segamat,Batu Bahat地区からの墓碑移転の話をさせていただきます。 追記:前回第158号で、この1995年の調査に参加していただいた小和田氏のお名前は省略しましたが、その後の調べで「宏明」氏と判明しました。 又、第158号15頁の本文上から2行目「写真FとG」は「写真GとI」に訂正します。 更に、3段目の写真の説明が左右反対となっていました。正しくは写真Fが社殿の基礎跡、Gが現在ジョホール・バル日本人墓地にある招魂碑です。 以上
ジョホール・バル日本
人墓地(その3) 木村秀美 ジョホール日本人会では在マレーシア日本国大使館の資金的援助を得て1999年と
2001年の二回に亘ってジョホール州内に点在する日本人墓碑と記念碑を当墓地に移転しました。
移転した墓碑はジョホール・バル日本人墓地右奥にある「真如親王供養塔」、合同慰霊碑の「倶会一処」の左横に一列に並んで建っています。サイズは墓碑発見 時の寸法である。 墓碑参照番号:I H G F E D C B A @
今回はまず@からEまでのそれぞれの碑について、手元にある資料を参考にしながら簡単に説明いたします。
ジョホール・バル日本
人墓地(その4) 木村秀美 前回(第162号に引き続いて、今回は1999年4月州内各地から日本人墓地に移転した墓碑について(墓碑参照番号F〜K) 説明します。 ![]()
木村秀美 最近日本から或いはマレーシア国内やシンガポールから、当日本人墓地を訪れる日本人が 増えています。 ご存知かと思いますが、ここには高野山親王院の建立になる真如親王の供養等があります。この供養塔は平城(へいぜい)天皇の第3皇子として生まれた高丘親 王は、809年11歳で立太子として一度は次の天皇に決まっていましたが、810年(弘仁(こうにん)元年)「薬子(くすこ)の変」に巻き込まれ、皇太子 の地位を失いました。24歳(?)で出家したがその後、空海を師と仰いで高野山に入り、空海10大弟子の一人となりました。 855年奈良東大寺の大仏の頭部が突然落下して、親王はその修理最高責任者に任じられました。861年の大仏修理完了の式典〈大仏慶讃会〉で総指揮に当た りましたが、その翌年の862年更に仏道を極めたいと唐の都長安に向けて出発した。その時親王は60歳過ぎ。 更に869年奥義を求めて今度は長安から優に10,000キロ離れた天竺を目指して 供と3人だけで旅立ちました。この時、真如親王67歳(推定)でした。長安から広州 まで約400キロ、広州からマラッカ海峡経由でガンジス川中流域まで約9,000キロもあります。 広州を出発した後、真如親王と供の3人の一行は消息を絶ってしまいます。それから約 10年後唐の日本人修行僧から「風のたよりによれば、真如親王は羅越国まで行ったものの、そこで亡くなったようだ」との知らせが届きました。 歴史家の研究によれば羅越国は現在のジョホール河一帯にあったと説が有力です。つい 最近でも現地新聞にジョホールで古い都の跡かも知れないと言う遺跡らしきものが見付かったと報じていました。 いずれにしましても、現在と比較して交通機関の発達していなかった当時、10,000キロ以上離れた異国の地まで、言葉の問題もあるでしようが、更に67 歳のお歳で、勉学のため、天竺に出発することを決めた真如親王の決意、苦難に対する覚悟には全く敬服の一言に尽きます。
2006年5月現在元来から当墓地に葬られている第2次世界大戦以前の石碑で残っているのは全部で7基となっています。 石碑Sについては次号で詳しく説明します。 参考資料:シンガポール日本人墓地−写真と記録〈改訂版〉シンガポール日本人会 シンガポールを中心に同胞活躍 南洋の五十年 新嘉坡 南洋及日本人社 写真:筆者撮影
ジョホール・バル日本人墓地(その6) 木村秀美 このシリーズもやっと最後を迎えることとなりました。今回は墓地内の休憩所のそばに横たわる御影石製の大きな「戦跡記念碑」 についてです。 ここでは現在の日本人会の前身である「三水会―さんすいかい」の「日本人墓地管理要領」からこれに関係する記述を転載させていただきます。この文章はどな たが何時作成されたのか分かりませんが、1983年以降であることは確かであります。 この記念碑を日本人墓地へ持ち込んだ当時、この地に長く滞在していた私の旧友、尾久哲文氏から聞いた記憶によれば、この記念碑をどこに持って行くかについ てジョホール市当局と日本人コミュニティとの間で何回も話し合いが持たれたとのこと。市当局は市内に歴史公園を作るという案があって、そこにこの記念碑を 移転したいとの希望であった。一方、当時の日本人コミュニティはいろいろな思いがあるこの碑は日本人墓地へ移転して、そっと静かに眠らせてやりたいと考え た。 結局、日本人コミュニティ社会の希望が叶えられて、記念碑はジョホール・バル日本人墓地へ運びこまれたが、二つに割れていた碑は地面に横たえて碑文も自然 に風化させるのがベストだとする意見が多数を占めて、今の状態となったとのこと。 現在は碑文も大分読み辛くなっていますが、注意深く読むと元の碑文が確認出来ます。記念碑のある場所は前号(第164号)22ページにある略図(番号 20)を参照して下さい。
日本人墓地に埋葬されている石田彌助さんの縁者が日本で見付かりました。 戦前当地に在留した日本人でジョホール・バル日本人墓地に眠る石田彌助さんの縁者でその墓碑を立てた彌助さんの弟、栄吉さん のお子さんの浪江澄子さん(71歳)とお孫さんの浪江妙子さんが12月2日遠路はるばる日本から墓参に来られました。実に61年ぶりのことでした。 彌助さんは戦前当地で魚介類の販売を手広く営んでいて、組合長もしていたようだとは浪江澄子さんの話です。昭和19年4月2日に逝去されて、弟さんの栄吉 さんが昭和20(1945)年4月2日に現在の立派な墓碑を建てられた。栄吉さんは昭和61年(1986)6月9日87歳の時、日本で亡くなられていま す。お墓は墓地の日本人会が建てた合同慰霊碑(倶会一処)の前にあります。
日本人墓地に埋葬されている石田彌助さんの縁者見付かる! 事務局 木村秀美
その後も、マレーシア国内外から当墓地や埋葬者についての問い合わせが日本人会に寄せられています。 尚、浪江澄子さんからは墓地の管理に使ってくださいと二万円のご寄付をいただきました。浪江さん親子が今回墓参が出来たことの喜びを12月5日に事務局で 受け取ったメールの中で次のように表現されています。参考までにご披露させていただきます。
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