あなたもまた狙われていますよ(No.10)
 
木村 秀美 (日本人会)
この話は今から20数年前、私がフィリッピンのマニラに勤務をしていた時の恐ろしい事件です。あれから既に20数年経った現在でも一般の日本人は「フィリッピン」と聞けば直ちに「貧困・泥棒・殺人・拳銃」等々の悪いイメージに結び付ける傾向にあります。 私は1976年から1981年の3月までマニラに家族と共に生活しましたが、当時はマルコス大統領とイメルダ大統領夫人が健在で、この国を実にうまく治めていました。もちろん、どこの国でもいつの世でも同じで,お金持ちはより大金持ちに、貧乏人はいつまでも貧乏人で, 町には物もらいが横行していました。それでも、一般の人は例えお金が無くても自殺することもなく、道路端で物乞いをする憐れな人には進んで何がしの小銭を与えていました。彼らの性格は本質的に底抜けに明るくて,親切で実に愛すべき国民と言えます。
 
でも、この時ばかりは私も「背筋が寒くなる」と言った表現がピッタリの事件で一生涯忘れられない思い出の一つです。
 
フイリッピンの南部にあるミンダナオ島は日本人にはバナナとパインナップルの産地として有名です。第2次世界大戦の末期に米軍の総司令官マッカーサーはマニラがあるルソン島のコレヒドール要塞での戦いで日本軍に敗れて命からがら撤退しました。その時に「アイ・シャル・リターン[私は戻ってきます]」と言う有名な言葉を残して彼はオーストラリアに避難しました。彼は1944年オーストラリアからフイリッピンのど真ん中にあるレイテ島に再上陸して反攻を開始しました。この時日本軍はフイリッピン戦線を真二つに分断され,レイテ島からルソン島の日本兵が米軍の目標となりました。一方
 
ミンダナオ島に残った兵達は米軍との戦いは避けられましたが自給自足の生活を強いられました。米軍はマニラの奪回が目的でしたからミンダナオ島の日本軍は相手にしませんでした。その結果、幸運にもこの島にいた日本軍の兵達は多くの場合命を落とさずに済みました。
 
前書きが長くなりましたが、このミンダナオ島の北端にカガヤンデオロと言う町があり,ここへは毎日マニラから飛行機の定期便(約1時間)が飛んでいます。そのカガヤンデオロから西に車で山越えして約3時間のところにイリガンと言う小さな町があります。その町外れにN国営製鉄所があり、日本から製鉄用原料や機械類、それに技術指導をしていました。私が勤めていた会社はその窓口となっていました。
 
或る時、私は日本から出張してきた製鉄機械のメーカーの技術者2名を連れてN製鉄所へ案内しました。イリガンの町中の小さなホテル(バスタブは無くてシャワー設備のみで、お湯は出なくて冷たい水がチョロチョロとしか出ないのですが,日中工場で汗と油で汚れている身体を洗うためやむなくこの冷たい水でシャワーを浴びます)で2泊した翌朝、 カガヤンデオロの会社出張所から送られてくる車を待っていました。途中の道は舗装されておらず日中でも薄暗い山中を通らねばなりません。迎えの車は待ち合わせの時間を1時間も過ぎても到着せず,私達はマニラへ帰る飛行機の出発時刻の関係もあるのでイライラして待っていました(日本人は概して気短である)。その時ホテルの前に1台のカガヤンデオロのタクシーが現れて、運転手が私達の処へ来て、「これからカガヤンデオロへ戻る。運賃は半分でよい。空車で帰るのよりもいい。」と言うではありませんか。申し出があった運賃には非常に興味がありましたが、遅れているとはいえ既に手配している会社の車が来ることになっているので残念だがこれを断りました。それから暫らくして待っていた車がやっと到着しました。途中でタイヤがパンクして取り換えるのに時間が掛かったとの ことでした。
 
私達は早速この車に乗ってカガヤンデオロに向かいました。町から1時間半ぐらい走った山中で車数台が停まっていて通行を遮っていました。道路の端に1台の車のドア−が開いたままになっていてそこに人が集まっていました。交通事故とはちょっと様子が違うので、何事かと思い、車を降りてそのタクシー近寄って車の中をのぞき込んでびっくりした。私は思わず「あっ」と声を出してしまいました。つい1時間半前に私がホテルで会ったあのタクシーの運転手が口から血を出してハンドルにもたれかかって死んでいたのです。口中にピストルの弾が打ち込まれているとのことでした。同時にもし、もしも私達がこの タクシーに乗っていたら…と思ったら全く背筋が凍る思いでした。私達は全く運が良かったのです。
 
余談ですが、ミンダナオ島には以前から反政府組織があり今でも始終政府軍と戦っていることは皆様ご承知の通りです。フイリッピンでは密造された銃やピストルは簡単に手に入りますので、現地の運転手から「制服(政府軍や警察)を着ていない連中に道路上で停車を命じられても自分の車は絶対に止めるな。彼らは大抵物取りだから車のスピードを上げて突き切ること。その場合相手を怪我させても止む得ない」と常々言われていました。 「自分の身の安全は自分で守る」と言う精神が事件の多い国に住む彼らには自ずから身についているのです。
 
私はその運転手の冥福を祈りながら,一方「助けられた」ことを神仏に感謝しながら現場を離れました。
 
教 訓
            生きるも死ぬも紙一重です。生かされていることに常に感謝の
         気持ちを持って人生が送れればこれ幸せと感じている昨今です。
 
次回は同じくフイリッピンのボホール島内の人里離れた道路で車に乗って走っていて、 小牛と衝突して車は大破しましたが命は助かったと言う事件です。小牛1頭の値段よりも自動車の修理代が高くて小牛の補償をせずに済んだと言う話。
             
以上