ジョホール・バル日本人墓地

   ジョホールバル日本人墓地は、ジョホール州各地に分散(ムア、セガマット、バトパハ、コタティンギ)していた日本人墓碑を、現在の場所に移転しまし た。移転に際しましては、初代ジョホール日本人会事務局長・竹下 純一氏、今口 秀泰氏他幹事会社のご支援を賜りました。普段は施錠されており、鍵は日本人会で管理しております。墓参をご希望の方は事務局(07-380-5024)までご連絡ください。

1.正式名称 JAPANESE CEMETERY JOHOR BAHRU
2.管理委任日 1924年4月13日
3.官報掲載 1924年5月5日、官報230号
4.位置(場所) LOT NO,1142 JALAN KEBUN THE、 JOHOR BAHRU,
JOHOR DARUL TAKZIM MALAYSIA
5.広 さ 1 ACRE 1 ROAD 35.5 POLE(約4,600m2)
6.管 理 者 MR W.ITOH
7.墓地 発見 1962年TCM(TEXTILE CORPORATION OF MALAYSIA)ユニチカ及び三井物 産の出向社員 が此処に日本人墓地があることを聞きジャングルを切開いて現在の状態に復元しました。
8.真如親王供養塔 真如親王は西暦860年(約1140年前)、平安京第2代天皇・平城帝の第三皇太子としてお生まれになる。 真如親王は当 時の唐の国(現在の中国、広東)を船出し、タイ、バンコックから天竺(現在のインド)へ、仏法の奥義を窮めるべく、御渡航の途次、病を得られジョホール・ バルで薨去されました。供養塔は、1970年1月 高野山親王院により総ての材料は日本より輸入され専門の石工により建立されました。
9.お彼岸供養 春秋にお彼岸供養を行っております。

 

現在ジョホールバル日本人墓地にある招魂碑と記念碑について

(その1)

木村秀美


2001年3月にジョホール日本人会では、在マレーシア日本国大使館の協力を得て州内 コタティンギ郡にあった日本人が関係 した遺跡・墓碑をジョホールバル日本人墓地へ移設した。
今回はパームオイルの木が生い茂り、日中でも薄暗い林の中で見つかった日本人が建立 した招魂碑と記念碑それぞれ1基について、発見当時の様子を後世に残 す為に関係者の 一人としてここに筆を取る次第である。遺跡の日本人墓地への移転は、このほかにもう1基の大きな招魂碑と日本人女性の墓石も一つ見つか り、これらも一緒に行ったのだが、これについては次回以降に譲ることにする。
これら4基の遺跡が見つかったのは全くの偶然であった。今からちょうど10年前の1995年に、私は仲間とデサルーでゴルフをした後(当時ジョホールには パブリックコースとしてはここしかなかった)、ゴルフ場から少しコタティンギへ戻った海岸沿いのPanchorと言う町にある海鮮料理店Sengat SeafoodRestaurant(写真①)で、いつものようにワイワイがやがや騒ぎながらFish Head Curryを口にしていた時、中国人から「日本人か」と声を掛けられ、「そうだが・・・?」と答えると、彼は大事そうに保管していた「新明日報(1993 年7月30日付)」という、中国語新聞が取り上げた日本人の遺跡や墓石が見つかったと言う記事(写真②)を見せた。
すべてはこれがことの始まりであった。その時は余り分からない中国語で説明を聞いただけであった。後日、日本人会の竹下事務局長(故人)に声を掛けて改め て4WDを調達して、この中国人に現地案内を頼んだ。
人気の無いパームオイル園内の小道から少し中へ入ったところで、「招魂碑」(写真③)と「加餐努力」で始まる背の高い記念碑(写真④)を見つけた。これら は明らかに日本人が建立したもので、周囲はパームに囲まれていたので、これ等の遺跡は損傷することなく碑に刻まれた日本語の文字もハッキリと残っていた。 発見した時の状況は写真⑤の通りである。写真中央の人物はマレーシアに長く駐在して、香辛料の原料となる植物を栽培していた 尾久哲文氏(元S& B Food)で、この調査に協力してくれた友人である。
それから私はジョホールバルに戻って、趣味で手元に集めていたシンガポールやマレーシアに関する書籍と資料をシンガポールの書店で手当たり次第に探して、 私は遂に「ジョホール河畔―岩田喜男南方録」小林一彦・野中正孝著の中に、この記念碑と招魂碑の写真が載っているのを発見したのである。(写真⑥)この二 つの碑はトロンスンガイにあった「南洋神社」のものである。写真⑤と⑥を見比べてみると、尾久氏が立っているのは碑の裏側で、向かって左後ろに社殿があっ た。
写真⑦では社殿の基礎と思われるコンクリート台が移っている。この記念碑は、大正2年 (1913)1月22日シンガポールから小型船でマレー半島のジョ ホール王国パンチョールのゴム園へ赴任した青年―岩田善雄24歳とその部下達のゴム園開発の苦労と業績を讃えたものである。招魂碑は、岩田氏と苦労をとも にして亡くなった社員や家族の魂を祭るためのものである。
現在この二つの碑は、ジョホールバル日本人墓地の左奥にある大木の下に移転されている。(写真⑧と⑩)。
最後に写真⑨はこの調査に加わった人たちである。尾久氏は数年前に定年で帰国、竹下氏は今年他界した。小和田氏は当時シンガポールでご自分の仕事をしてい たが、今は消息不明である。

 Sengat Seafood Restaurant  招魂碑発見を伝える新明日報30-7- 1993  旧南洋神社招魂碑
 旧南洋神社記念碑(中央は筆者)  発見当時の様子(中央は尾久哲文氏)  「ジョホール河畔」より。招魂碑は大正4年 (1915)建立とある
 ← 社殿の基礎

現在ジョホールバル日本人墓地 →
にある招魂碑

 同じく日本人墓地にある記念碑 →

← 発堀探検隊(?)のメンバー:
左から竹下純一氏(故人)、
尾久哲文氏(帰国)、筆者、
小和田氏(シンガポール)

 

ジョホール・バル日本 人墓地にあるもう一つの招魂碑と墓碑について 

(その2)

木村秀美

前号では、2001年3月にジョホール日本人会で在マレーシア日本国大使館の協力で州内コタテインギ郡トロ・スンガイにあっ た日本人の建立になる「南洋神社の記念碑と招魂碑」をジョホール・バル日本人墓地へ移設したことをお話しました。
今回は同じくコタテインギ郡センガットの見晴らしのいい丘の上に堂々とそびえ建っていた「招魂碑」及びその近くの日中でも薄暗いパーム・オイル園から見つ かった日本人女性の墓碑について触れたいと思います。
この招魂碑(写真①)は台座が約2メートル90センチx3メートル70センチ、高さは実に約7メートル80センチで、表面トップに「IN MEMORY  OF NOBLE COMRADES」と横書きされ、その下に縦書きで大きく「招魂碑」と刻印されています。裏面には「大正6年秋森村書」とあるので、こ の碑は1917年に建立されたものと判断します。碑文の箇所は石ですがその周囲はセメント作りでした。恐らく、碑文を刻んだ石の部分は日本から持って来た のではないかと推察します。尚、この場所は記録によれば当時「日本ゴム園」と呼ばれていたところです。ComradeとはLongman Dictionary of Contemporary EnglishによればA friend、especially someone who shares difficult work or dangerとあるので、日本語では「辛苦をともにした友人たちの記念に」と訳すればいいのでしようか・・・。
現在この記念碑はジョホール日本人墓地内のトロ・スンガイにあった南洋神社の記念碑の向かって左隣に移設されています。尚、日本人墓地に移転された招魂碑 は頭部のかさ状の飾りものが(何か意味があるとは推察されるが)なくなっています。(写真②)

ここでチョッと横道にそれますが、前述南洋神社の記念碑(写真③)(正面トップに「加餐努力」とある)については、先月号(第158号)でその移転の経緯 について書きましたが、今回はその正面の加餐努力の文字の下に刻印されている碑文について、触れてみたいと思います。一部判読不可能な箇所もありますが、 まとめるとその内容は凡そ次の通りです。

岡本貞烋氏は小田原藩士・慶応義塾の出身で福沢先生の知遇を得て殖産興業に尽くす。また文筆 の嗜好あり、ことに書に善く、竹渓と号す。上記題字はその自筆 なり。明治43年東京にて同志とともに南洋護謨株式会社を起こし、推されて取締役会長となり、マレー半島ジョホール国地文(Timun)で森林を開拓して ゴムの木を栽培する。(注Timunは漢字で地と口へんに文とあるが私のパソコンにはこの文字はなく、已む無く「文」を使いました。)以来忍耐刻苦5星 霜、樹木やっと成長して将にこれから収穫に当たるこの時期の昨年9月、62歳を以って逝く。同氏とともに会社を起こした発起人で且つ会社の経営に当たる常 務取締役後藤周蔵、吉田啓、取締役松本留吉ほか2氏、監査役大西正雄他3氏及び現地にいる発起人の一人、後藤吉武他2名が集まり、今後お互いに奮励努力し てこの事業の成功を期す。記念のためゴム園の丘にこの碑を建立する。時に大正4年6月貴族議員慶応義塾長鎌田栄吉これに撰し、古橋種臣これを書す。ともに 岡本氏の知友なり。
元陸軍大将従二位勲一等功一級子爵 川村景明書
(注) 1. 年号:明治43年-西暦1910  大正4年-西暦1915
  2. 苗木はゴムの原料となる樹液が採集できるようになるのに植えてから 6-7年掛かると言われています。

手元資料によれば、1911年8月現在の主要邦人ゴム園は総払い下げ面積が83,789エーカーで、総開墾面積は15,858エーカーであった。その中で 既墾面積が6,000エーカーの三五公司(三菱系)から10位の400エーカーの鈴木審三氏 (個人-元古河園にいたが途中で分離)があり、南洋護謨は第6位で、払い下げ面積が 3,000エーカーで既墾面積は1,000エーカー、事業着手は1911年とあり ます。この時期、日本では南進論が受け入れられ、官民一体となった農園労働者の移民が活発でした。マレーシアではゴム園の開発が積極的に行われました。 (資料: 「英領マラヤの日本人」 原不二夫著) 

話を本題に戻して、次は「故衣川澄子之墓」について記します。この墓は南洋神社跡 から4WD車で少し走ったパームやしが生い茂る薄暗いくぼみの中にありました。 
発見した時墓は「つたの木」で覆われていて、それはちょうど女性の長い髪のように も見えて、私は一瞬気持ちが悪くなったのを今でも覚えています。 
調査に同行してくれた尾久氏が持参した「なた」で、墓碑を覆うつるを切り払うと木 の根元で風雨にさらされなかったためか、文字も鮮やかなりっぱな墓石が出てきました。(写真④と⑤) 後ろの面には「大正9年2月4日没」と石に刻み込ま れて、その周囲はこれもセメントで固めてありました。 
(注) 大正9年-1920年

この墓の主は、先述「加餐努力碑」にある岡本貞烋青年が、大正2年1月22日シンガポールからパンチョールへ向かう蒸気船の中で乗合わせた「ゴム園の主と 名乗った日本服で靴穿きの50歳前後の婦人で、英語を勉強しようと思うが、見込みのないものだろうか」と尋ねかけた人ではないかと推測します。もちろん、 真実は今後調べてみる必要があります。それほど立派なお墓でした。
この墓は、後から近辺で見つかった4基の墓碑と一緒に、1999年4月に日本人墓地へ移転されました。墓地一番奥にある日本人会が建立した大きな合同慰霊 碑「倶会一処」の左後ろに移されています。

次回はKota Tingiの前述4基の墓碑とMuar、Segamat,Batu Bahat地区からの墓碑移転の話をさせていただきます。

追記:前回第158号で、この1995年の調査に参加していただいた小和田氏のお名前は省略しましたが、その後の調べで「宏明」氏と判明しました。
又、第158号15頁の本文上から2行目「写真⑦と⑧」は「写真⑧と⑩」に訂正します。 更に、3段目の写真の説明が左右反対となっていました。正しくは写真⑦が社殿の基礎跡、⑧が現在ジョホール・バル日本人墓地にある招魂碑です。

以上

Teluk Sengat「招魂碑」1917年建立。1995年2月撮影。写真左から: 尾久哲文氏、故竹下純一氏、筆者、小和田宏明氏  2001年日本人墓地に移転した「招魂碑」  ラダン・ナンヨウの南洋神社の記念碑
 
「故衣川澄子之墓」①
1995年2月撮影
 
「故衣川澄子之墓」②
1995年2月撮影
 同左。日本人墓地 に移転された墓(一番右端)

 ← 日本人墓地。コタティンギから移設された招魂碑2基と記念碑。中央の大きな招魂碑はセンガットから。

元南洋神社の招魂碑 →

← 元南洋神社の「加餐努力」記念碑

日本人墓地一番石の墓石が衣川澄子のもの。 →

   <再掲> 日本人会だより第158号15頁参照

← 「南洋園」の南洋神社社殿跡、コンクリート基礎

現在日本人墓地に移転されている旧南洋神社の記念碑 →

 

ジョホール・バル日本 人墓地(その3)

木村秀美

ジョホール日本人会では在マレーシア日本国大使館の資金的援助を得て1999年と 2001年の二回に亘ってジョホール州内に点在する日本人墓碑と記念碑を当墓地に移転しました。
移転した墓碑はジョホール・バル日本人墓地右奥にある「真如親王供養塔」、合同慰霊碑の「倶会一処」の左横に一列に並んで建っています。サイズは墓碑発見 時の寸法である。

墓碑参照番号:⑩ ⑨ ⑧ ⑦ ⑥ ⑤ ④ ③ ② ① 

今回はまず①から⑥までのそれぞれの碑について、手元にある資料を参考にしながら簡単に説明いたします。

真如親王供養塔(向かって 右端の一番立派な大きな 供養塔)
1970年1月高野山親王院、中川善教師により総ての材料を日本から輸入、専門の石工によって建立された。高さ270CM。
(碑文) 

高野山親王院の開基真如親 王は平城天皇の第三皇子 高丘親王なり。嵯峨帝の儲たりし後落飾して弘法 大師の法資となる。大師入定の後支那に渡って佛道 を修学すること三年さらに佛教の玄底を盡さんと して咸通六年一月二十七日廣州を船出して印度に 赴くの途次ジョホールに於て生年六十七を一期に 遷化す。嗚呼法を求めてあらゆる艱難に堪遂に 志を果たすに至らず遠く異域に遷化されたる悲運 を偲び爰に恩師尭榮和上宿願に任せ供養の寶塔を 建立するものなり。

旹 昭和四十五年庚戌年一月 

  日本高野山親王院小住 前 左学頭善教敬白

 

 
 「倶会一処」碑  
1994年5月ジョホール日本人会が合同慰霊碑として建立した。 
(碑文) 
祖国に帰る夢叶わず、此処 に眠る先達の困苦を偲び、マレーシアの発展及び日マ親善のために尽力されたその遺志を受け継ぐことを誓い、ここに鎮魂の碑を建立いたします。どうぞ安らか にお眠り下さい。

 1994年5月 
 在マレイシア日本国大使館 ジョホール日本人会

 

 
故衣川澄子乃墓
(裏)大正九年弐月四日没
サイズ: (上部) 49x93x145CM          
 (縦 x 横 x 高さ)
1999年4月小生ほかが地元中国人の案内でコタ
テインギの南洋神社跡の記念碑と招魂碑を調査に
行ってコタテインギ郡トロスンガイで見つけた。
1999年4月に当墓地へ移転した。
 
 

故村上梅代乃墓
(裏)大正九年七月廿九日永眠 
表上部に十字架あり。
サイズ: (上部)23x30x66CM
地元の人から連絡でコタテインギ郡トロ
センガットで見つかった日本人墓碑4個の
内の一つ。1999年4月に当墓地へ移転
した。
 

 

 

故近藤なる乃墓
(裏)大正十一年一月十日没 
  
 行年三十歳
(右横)大正十一年三月一日建立 
    
近藤理一 
サイズ: (上部)8x19x50CM
前述故村上梅代乃墓と同じ場所のトロセンガット
で見つかり、1999年4月に当墓地へ移転した。

 

 

五君乃墓
(裏)照屋亀小 三十二才 玉城武太 二十九才 
   出水浅吉 二十才  白戸力松 五十才
   鈴木角蔵 四十六才 
1999年2月コタテインギ郡テロセンガットで発見、
1999年4月当墓地に移転した。
 

 

 

 

(以下⑦から⑩までの墓碑 については次回ジョホール・バル日本人墓地(その4)へ続く。)  
参考資料:
日本人会事務局保管州内墓 地移転関係資料ファイルより(第1期及び第2期事業)
第1期墓碑移転事業報告書 (1999年7月)                            ジョホール日本人会墓地管理部理事 今口季泰
マレーシア日本人墓地巡回 供養についてのレポート(平成11年作成)                金久保童善(高野山真言宗地蔵寺住職)
マレイシアの日本人墓地及 び墓碑(平成11年)マレイシア日本国大使館監修・発行

 

ジョホール・バル日本 人墓地(その4)

木村秀美

前回(第162号に引き続いて、今回は1999年4月州内各地から日本人墓地に移転した墓碑について(墓碑参照番号⑦~⑫) 説明します。

⑦おこめ墓
 サイズ :8 x 17 x 34 cm(上部)
 発見場所:コタティンギ、トロ・センガットで発見。
 
 ⑧故稲垣圭三郎君之墓
 裏面 大正三年一月七日歿
 高さ 約2 m
 発見場所 バトパハ郊外の日本人墓 地。広いパーム林の中で高圧電線建設の為切り開いた小高い丘の上にあった。パーム園を開拓した時にここに動かした形跡があった。
 
陸軍大尉 大澤太郎
 
  陸軍准尉 長田安男
 裏  面 :昭和十七年一月十七日
  五十四期生一同建立
 発見場所 :ムア、ブキットパクリ
  (第二次大戦でシンガポールを目指した 近衛師団所属の士官)
 
 
⑩土神
 (裏面) 昭和八年四月拾九日建立
昔加末日本人共同墓地
留島幹記、北川正長、片山定義
 (左面) 列記
豊田安太郎、早田吉之助
前田豊治郎、松尾アキ
 (右面) 在留人塩増光三郎、太田茂 一郎
石山義男、荒木又造
 発見場所 :セガマットカントリーク ラブ内の日本人共同墓地内にあった。
 
 
 ⑪無名日本人之墓
 裏面 :朽ちはてた墓標、破損し た墓石等
八基の墓を集めて、ここにまつる。
一九九九年十月ジョホール日本人会
(現日本人会が建立したもの)
 
⑫三界萬霊
 発見場所 :コタティンギ、タマン・ コタジャヤの
ゴルフ場近くの小高い丘にあった。
 移転 :2001年2月
 
 
参考資料:
 ・日本人会事務局保管州内墓地移転関係資料ファイルより(第1期及び第2期事業)
 ・第1期墓碑移転事業報告書(1999年7月)
            ジョホール日本人会墓地管理部理事 今口季泰
 ・マレーシア日本人墓地巡回供養についてのレポート(平成11年作成)
               金久保童善(高野山真言宗地蔵寺住職)
 ・マレイシアの日本人墓地及び墓碑(平成11年)マレイシア日本国大使館監修・発行

 

 

ジョホール・バル日本人墓地

木村秀美

最近日本から或いはマレーシア国内やシンガポールから、当日本人墓地を訪れる日本人が 増えています。
ご存知かと思いますが、ここには高野山親王院の建立になる真如親王の供養等があります。この供養塔は平城(へいぜい)天皇の第3皇子として生まれた高丘親 王は、809年11歳で立太子として一度は次の天皇に決まっていましたが、810年(弘仁(こうにん)元年)「薬子(くすこ)の変」に巻き込まれ、皇太子 の地位を失いました。24歳(?)で出家したがその後、空海を師と仰いで高野山に入り、空海10大弟子の一人となりました。 855年奈良東大寺の大仏の頭部が突然落下して、親王はその修理最高責任者に任じられました。861年の大仏修理完了の式典〈大仏慶讃会〉で総指揮に当た りましたが、その翌年の862年更に仏道を極めたいと唐の都長安に向けて出発した。その時親王は60歳過ぎ。
更に869年奥義を求めて今度は長安から優に10,000キロ離れた天竺を目指して 供と3人だけで旅立ちました。この時、真如親王67歳(推定)でした。長安から広州 まで約400キロ、広州からマラッカ海峡経由でガンジス川中流域まで約9,000キロもあります。
広州を出発した後、真如親王と供の3人の一行は消息を絶ってしまいます。それから約 10年後唐の日本人修行僧から「風のたよりによれば、真如親王は羅越国まで行ったものの、そこで亡くなったようだ」との知らせが届きました。
歴史家の研究によれば羅越国は現在のジョホール河一帯にあったと説が有力です。つい 最近でも現地新聞にジョホールで古い都の跡かも知れないと言う遺跡らしきものが見付かったと報じていました。
いずれにしましても、現在と比較して交通機関の発達していなかった当時、10,000キロ以上離れた異国の地まで、言葉の問題もあるでしようが、更に67 歳のお歳で、勉学のため、天竺に出発することを決めた真如親王の決意、苦難に対する覚悟には全く敬服の一言に尽きます。


手前が真如親王供養塔

 

ジョホール・バル日本人墓地(その5)

木村秀美

以下は太平洋戦争以前からジョホール・バル日本人墓地に元々あった墓碑です。

故野村勇氏記念碑(高さ245cm)
 
(右 側) 氏ハ岐阜縣羽島郡出身明治四十五 年渡南以来 柔佛州政廳ニ職ヲ奉シ爾来在留民発展ノ為 専心盡瘁スルコト拾有餘年實績大イニ顕ハレ 人皆幹局ニ服ス其ノ功ヤ偉ナリ不幸病魔ノ 侵ス所トナリ昭和四年七月氏ヲ遠ク母国ヘ 送リシニ昭和5年壱月拾七日ヲ以ッテ遂ニ 杳トシテ逝ケリ 嗚呼歎惜ヤ深シ茲に墓碑ヲ建立シテ氏ノ 功績ヲ記念ス 
(左 側) 岐阜縣羽島郡
昭和五年壱月拾七日亡 行年四拾参歳
(説 明)
墓地入り口を入った ところに ある一番大きな墓碑です。
昭和5年=1930
同氏は大正6年 (1917)10月に創立された
柔佛日本人會の初代會長に就任しています。
 ⑭ 供奉無縁佛(高さ49cm)
昭和13年
法名釋松節信士
四月二十九日
  (裏側) 衷俗名 諸戸末松
行年七十二歳
  (説明) 昭和十三年=1938
 
故内田?造乃墓(高さ49cm)
  (右側) 大正七年八月二日
行年 三十七才
愛媛県今治町
  (左側) 妻 内田梅代
建之吉松性一
   ?本福松
   末藤武一
  (説明) ①大正七年=1918
②?=竹かんむりに泰の字ですが辞書にありません。
 
 
法名釋教王應信士
  (右側) 本籍地
東京都向島區寺島町七ノ一六二
  (左側) 昭和二十年四月二日
妻 石田リク
弟 石田栄吉 建之
  (裏側) 昭和拾九年四月二日没
俗名 石田彌助
享年五十二歳
  (説明)
周囲を頑固なコンクリートで囲っ た3段作りの 立派な墓碑である。石碑は御影石製で多分日本 から運んで一周忌を記念して建立したものと 思われる。
昭和20年=1945
 
法?釋智眼信女位 〈高さ120cm〉
  (裏側) 熊本県天草郡島子村字上
昭和二年三月十七日没
享年三十二歳
石山ハツノ
  〈説明〉
昭和二年=1927
墓碑の下部は3段で花柄のタイル 貼りで現在 屋根は落ちているが周囲の4隅には コンクリート製の柱がある。
?=号へんに乕の字で辞書に見当 たらず。
 
高田ヤス之墓〈高さ102cm〉
  〈裏側〉 大正十三年七月二十日死
行年三十九才
  〈説明〉 大正十三年=1924

 シンガポール日本人会が1992年5月に初版を出した「シンガポール日本人墓地―写真と記録 改訂版」の最後に「その他の資 料」としてジョホールバルの日本人墓地についても書かれています。戦後の昭和37年(1962)頃当地に進出してきた日本企業の社員によってジャングルの 中にあったこの墓地が発見された時には約80基の墓が残っていたようですが、ほとんどが木の墓標であったため、その後ほとんどは跡形もなく朽ち果ててしま い、1982年現在残っているのは判読出来ない木碑2基を含んで全部で10基となったとあります
2006年5月現在元来から当墓地に葬られている第2次世界大戦以前の石碑で残っているのは全部で7基となっています。
石碑⑳については次号で詳しく説明します。
 参考資料:シンガポール日本人墓地-写真と記録〈改訂版〉シンガポール日本人会
          シンガポールを中心に同胞活躍 南洋の五十年 新嘉坡 南洋及日本人社
    写真:筆者撮影

墓地内平面図  x =木製墓碑或いはその痕のある箇所

 

 

 

 

木製墓碑

木製墓碑が朽ちて土台だけが 残った

石碑のかけらのみを見る

 

ジョホール・バル日本人墓地(その6)

木村秀美

このシリーズもやっと最後を迎えることとなりました。今回は墓地内の休憩所のそばに横たわる御影石製の大きな「戦跡記念碑」 についてです。
ここでは現在の日本人会の前身である「三水会―さんすいかい」の「日本人墓地管理要領」からこれに関係する記述を転載させていただきます。この文章はどな たが何時作成されたのか分かりませんが、1983年以降であることは確かであります。
この記念碑を日本人墓地へ持ち込んだ当時、この地に長く滞在していた私の旧友、尾久哲文氏から聞いた記憶によれば、この記念碑をどこに持って行くかについ てジョホール市当局と日本人コミュニティとの間で何回も話し合いが持たれたとのこと。市当局は市内に歴史公園を作るという案があって、そこにこの記念碑を 移転したいとの希望であった。一方、当時の日本人コミュニティはいろいろな思いがあるこの碑は日本人墓地へ移転して、そっと静かに眠らせてやりたいと考え た。
結局、日本人コミュニティ社会の希望が叶えられて、記念碑はジョホール・バル日本人墓地へ運びこまれたが、二つに割れていた碑は地面に横たえて碑文も自然 に風化させるのがベストだとする意見が多数を占めて、今の状態となったとのこと。
現在は碑文も大分読み辛くなっていますが、注意深く読むと元の碑文が確認出来ます。記念碑のある場所は前号(第164号)22ページにある略図(番号 20)を参照して下さい。

 

戦跡記念碑


記念碑は1942年(昭和17年)約3,000人の旧日本軍将兵が望郷の念にかられながら戦死したマレー攻撃の中でも、最も 激戦をきわめたとされる「ジョホール水道渡河作戦」のあと、当時第25軍司令官だった故山下奉文中将が建立した、高さ2.6m、幅80cm、厚さ15cm の御影石製で山下中将の署名がある。
終戦直前の1945年6月(昭和20年6月)ごろから行方がわからなくなり、関係者が探していたところ、1982年10月(昭和57年10月)ジョホール 水道河畔のジョホール州リド地区で、現地の人が公園を建設中、二つに折れ地中に埋もれていたのを発見。1983年9月(昭和58年9月)州政府の許可もお り、日本人墓地に搬入、現在に至っている。
発見当時、現地の中国系新聞南洋商報は、「従山下奉文石碑出土―回溯日侵興新山淪陥」の見出しで大々的に報じている。また、日本の新聞社の朝日新聞、日本 経済新聞、北海道新聞等の記者が来柔し、取材した記録がある。

記念碑碑文

?は判読不能

墓地に静かに横たわる現在の記念碑

戦前の記念碑

日本人会近くの海岸沿い (Jalan Skudai)で戦前記念碑が建っていた場所には今も基礎だけが残っています。



日本人墓地に埋葬されている石田彌助さんの縁者が日本で見付かりました。
(その1)

戦前当地に在留した日本人でジョホール・バル日本人墓地に眠る石田彌助さんの縁者でその墓碑を立てた彌助さんの弟、栄吉さん のお子さんの浪江澄子さん(71歳)とお孫さんの浪江妙子さんが12月2日遠路はるばる日本から墓参に来られました。実に61年ぶりのことでした。

彌助さんは戦前当地で魚介類の販売を手広く営んでいて、組合長もしていたようだとは浪江澄子さんの話です。昭和19年4月2日に逝去されて、弟さんの栄吉 さんが昭和20(1945)年4月2日に現在の立派な墓碑を建てられた。栄吉さんは昭和61年(1986)6月9日87歳の時、日本で亡くなられていま す。お墓は墓地の日本人会が建てた合同慰霊碑(倶会一処)の前にあります。

浪江妙子さんによれば、生 前祖父の栄吉さんが兄のお墓が ジョホールにあるとは聞いていた。たまたま当会のホーム ページが見付かり、アクセスして「彌助、墓碑」を検索したら、 日本人墓地の記事が見付かった。そこに彌助さんの墓があった。 二人は早速墓参がしたいがどうしたら出来るかと10月19日、 当会宛に尋ねのメールを送って来られた。

二人は去る12月2日墓参に訪れ、叔父のお墓とその周囲を 日本から持参した用具できれいに掃除して、ねんごろに供養されました。 

 

 

日本人墓地に埋葬されている石田彌助さんの縁者見付かる!
(その2)

事務局 木村秀美

 

 

日本人会だより第170号 (2006年12月15発行)の18ページで、ジョホール・バル日本人墓地に眠る石田 彌助氏の弟で石田栄吉氏の子ども、浪江澄子さんとその孫にあたる浪江妙子さんのお二人が、昨年12月初めに墓碑が建立されて実に61年ぶりに当地を訪れ、 叔父の彌助さんの供養をされたことについて簡単にレポートしました。

浪江妙子さんが叔父の墓碑の所在を見つけたのは当会のHPでした。それも当広報部HP編集委員会がジョホール日本人墓地の記 事をHPに掲載して僅か2- 3ヶ月後の出来事でした。お参りが出来た浪江さん親子ご当人の喜びに加えて、常日頃から当地の情報発信に努めている山田健一郎広報部HP編集委員長以下各 メンバーもお役にたてたことを大変 喜んでいます。

その後も、マレーシア国内外から当墓地や埋葬者についての問い合わせが日本人会に寄せられています。

尚、浪江澄子さんからは墓地の管理に使ってくださいと二万円のご寄付をいただきました。浪江さん親子が今回墓参が出来たことの喜びを12月5日に事務局で 受け取ったメールの中で次のように表現されています。参考までにご披露させていただきます。

 

12月5日
無事帰国しました。ありがとうございました。
このたびは何からお礼を申していいのかわからないくらい大変お世話になりました。
お心遣いやお時間を作ってくださったこと、本当に感謝しております。ありがとうございました。
12月2日ばかりでなく、日ごろの墓地の管理から私達のことを記事にしてくださったことまで、すべてに御礼申し上げます。ありがとうございます。
木村さんから果物やお花をお供えていただき、また道具まで用意して、掃除もしていただき、きれいで立派なお墓になりました。石井彌助も木村さんに大変感謝 していることと思います。ありがとうございます。
木村さんにお会いできたのが、とても幸運なことでした。そうでなかったら、今回のようなお墓参りは出来なかったと何回も母と話しております。
木村さんへ最初にメールしたのは10月19日でしたが、ジョホール日本人会のHPで石井彌助の墓を見つけたのは8月3日でした。(貴HPを印刷したので、 2006/08/03と日付が残っています。)ですから、貴HPに石井彌助の墓の記事を掲載してからすぐに私は検索していたことになります。やはり今回お 墓参りに行くように何か見えない力がはたらいていたのだと感じます。
その後、行き方を調べたり検討したりしたのですがいい方法が見つからず、お世話かけるになるとは思いながらも、ジョホールへのアクセスのアドバイスを頂戴 したく、10月19日にメールした次第です。車やお花の手配をしてくれたウォンさんにもくれぐれも宜しくお伝えくださいませ。車やお花の手配していただい て本当によかったと思います。自分達でジョホールに行っていたら、イミグレだけでヘトヘトに疲れてしまうところでした。
終戦前のあの時分にどうやって吉田栄吉がお墓の石を日本から持って行き、あの場所にお墓を建てたのか、もしわかったことがあったなら、追って報告したいと 思っております。
何回繰り返しても言い尽くせませんが、御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。
浪江妙子